〈中学受験〉享保・寛政・天保の改革をまとめてスッキリ覚える!
江戸時代中期以降に行われた改革、三大改革(享保・寛政・天保)と田沼意次が行なった政策。
中学受験で学習する際に、覚えておきたい点は…
- 改革の名前
- 行った人物
- 行われた年代
- 改革・政策の内容
- 成果
押さえるべきポイントがたくさん!ウチのコ、久しぶりに復習してみたらやっぱり忘れてた…。でも、それぞれの改革や政策の個性をつかむと、
・飢きんによる食糧危機
・幕府の財政難
・学問、文化への影響
…など、この時代の背景も分かってくるので、ぜひ押さえておきたい!
今回は、スッキリと要点を載せた年表、語呂合わせやイラストなどを交えながら、覚えやすいようにまとめていきます。
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- 江戸の改革、行なった人や改革の名前を覚えたい
- 改革の内容や結果を復習しておきたい
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三大改革と田沼意次の改革
江戸幕府の財政難などの問題に対応するための三大改革、
・享保の改革
・寛政の改革
・天保の改革
そして
・田沼意次の政策
上の年表は、江戸中期のこれらの改革・政策と、飢きんをまとめたものです。
次々と改革が行われている感じだけど…
度重なる天災による飢きんがあったり、なかなか財政難から抜け出せなかったんだな…という感じがします。
それぞれの改革が、具体的にどんなものだったのかを見ていきます。
享保の改革
享保の改革はこんな改革!
- 行った人
-
徳川 吉宗(第8代将軍)
紀伊藩出身 - 行われた時
-
1716年〜(約30年間)
- 行ったこと
-
・目安箱の設置
庶民の意見を聞き、政治に反映させた。ここからの要望により小石川養生所が設立された。 -
・公事方御定書の制定
裁判の基準となる法律を定めた・上米の制
大名が米を幕府に納める代わりに、参勤交代の期間を短くする・新田開発
年貢による収入を増やすため・サツマイモ栽培
享保の飢きんをきっかけに、蘭学者でもあった青木昆陽に命じサツマイモ栽培を進める - 成果
-
財政は良くなるが、農民にとっては負担が大きく、効果は一時的だった
“質素倹約”を心がけた徳川吉宗
幕府の財政だけでなく、本人も質素な衣服や食事で節約を徹底。
また、農民に対して年貢の徴収率をあげたり、上米の制や新田開発などお米のことばかり考えていたため『米将軍』と呼ばれていました。
◎ 学問について
吉宗は、“様々な知識を取り入れるべき”という考えの元、キリスト教に関係のない漢訳の洋書の輸入を許可。
これにより、蘭学が発達。
目安箱を設置したり公事方御定書を決めたり、色々な面から物事を考えて、世の中を安定させようと東奔西走して頑張っている吉宗さんのイメージで。
【1716】いーな!ヒーロー
【吉宗】よし!胸はって
【競歩】享保!
多方面で頑張ってる感じだけど、お米のことを大事にするあまり、農民に負担をかけてしまったのは残念…
田沼意次の改革
田沼意次の政策はこんな政策!
- 行った人
-
田沼 意次(老中)
- 行われた時
-
1772年〜約14年間
- 行ったこと
-
・株仲間を認める
納税をすれば営業の独占ができるようにした -
・長崎貿易の拡大
貿易の制限をゆるめ、輸出額が増大・印旛沼、手賀沼の干拓の計画
洪水のため失敗に終わる - 成果
-
商業が発展し経済が活発化したが、商人や農民との格差が広がり不満も多かった
“改革”と言われない田沼意次の政策
“商業”の活性化により経済を立て直そうとした田沼意次の政策。ワイロ政治と悪いイメージで言われてきたけど、現在では評価が見直されているそう。実際、経済は活発化し江戸の街も賑わいました。
ただ、商業が発達する一方、農民の苦しい生活は変わらず。苦しさから農地を捨て、その後江戸に来たものの暮らしが成り立たない…ということが増え、江戸の街の治安は悪化。
結局、“農業”こそ大事としていたそれまでの幕府の考えと大きく異なっていたり、ワイロ政治が横行しすぎたりで、田沼の政策をよく思わない人々が多かったので、『改革』とは言われませんでした。
◎ 学問・文化
経済の活性化で街も賑わい、蘭学などの学問や文化なども発達しました。
ワイロ政治で嫌われがちなので、好感度UPのため干拓工事を頑張って進めてたのに、上手くいかず悔しがってるイメージで。
【田沼】田んぼ用の沼の工事進んでる?
【1772】否?ナニー!?
干拓工事が上手く進めば、評価もまた変わっていたのかな…
寛政の改革
寛政の改革はこんな改革!
- 行った人
-
松平 定信(老中)
元 白河藩主 - 行われた時
-
1787年〜約6年間
- 行ったこと
-
・囲い米
飢きんに備え各地に米を蓄えさせる -
・旧里帰農令
農地を捨てた人々を農村に帰し、農業をするよう奨励 -
・倹約令
幕府にも庶民にも“質素倹約”を徹底・棄捐令
旗本や御家人の借金を免除 - 成果
-
一定の効果はあったが、それ以上に人々の反発が大きく、松平定信は解任される
田沼以前の江戸の世に戻したかった松平 定信
徳川吉宗の孫であった松平定信は、吉宗のように“質素倹約”が基本方針。
けれど、経済の活発化によって華やいだ暮らしをしていた街の人々は、質素倹約の生活には戻れない!ということだったのか、人々は反発。
また、この時代、田沼の経済政策で力をつけた商人の立場は強くなり、それに対して武士の権威は下がっていたため、これを解消すべく、貧しい旗本や御家人を救うため借金帳消しにする政令を出しました。“商業”ではなく“農業”、そして幕府中心の体制こそ正しいと考えていたようです。
◎ 学問・文化
定信は、世の風紀の乱れを正すため、朱子学以外の学問を禁止。また、娯楽本なども禁止しました。
乱れた風紀を嫌って、清き世に戻したいと願った定信さん。真面目さ故に、なんでも真っ直ぐ真っ平にしたがったイメージで。
【1787】いーな!花
【松平】真っ平にして
【完成】寛政!
以前は白河藩主だった定信を批判して『白河の清きに魚すみかねて もとのにごりの田沼恋しき』などの狂歌もできちゃいましたが…
真面目に取り組んだものの、人々には疎まれる…
なんだか可哀想な感じも…
天保の改革
天保の改革はこんな改革
- 行なった人
-
水野 忠邦(老中)
- 行われた時
-
1841年〜約2年間
- 行なったこと
-
・倹約令
“質素倹約”を徹底(寛政の改革以上の厳しさ) -
・人返し令
江戸に出た農民を農村へ帰す(寛政の改革の時と違い強制的) -
・株仲間の解散
物価引き下げが目的だが、逆に流通が滞り混乱を招く - 成果
-
横暴な政策は効果を上げることはなく、忠邦は老中を辞めさせられる
幕府存続をかけて改革を行なった水野 忠邦
◻︎時代背景
水野忠邦が改革を始めた頃は、第12代将軍 徳川家慶の時。この時の世の中の様子は…
・第11代将軍 家斉のぜいたくな暮らしにより幕府の財政はひっ迫
・天災による飢きんなどの影響もあり、庶民の生活は一層苦しくなりなり、各地で一揆が起こる
・幕府は、交易を求め日本へやって来る諸外国への対応に悩む
と、問題が山積み。
1837年には、いつまでも人々の苦しい生活を改善しようとしない幕府や商人に対して、幕府の元役人であった大塩平八郎が反乱を起こします(大塩平八郎の乱)。
反乱を起こしたのが幕府の元役人であったことは、世間にも幕府にも衝撃的。これが天保の改革が行われるきっかけになったと言われています。
◻︎忠邦の改革
こうして、かなりひっ迫した状態で改革を任された水野忠邦。これは、地に落ちた幕府の力や信用を回復させるための改革でもありました。忠邦は、かなり強硬な解決策を打ち出すものの、どれも人々を苦しめるだけで効果も上がらず…。結局、忠邦は2年で罷免(老中を辞めさせられる)。
もちろん、幕府の権威が回復することはなく、江戸幕府の終結へとつながることに。
◎ 文化
風紀の乱れを生むとして、
・歌舞伎小屋を江戸のはずれだった浅草へ移動させる
・落語や講談を控えさせる
など、人々から娯楽を取り上げていきました。
異国船打払令を出すなど、外国船に強硬な姿勢で対応していた幕府。が、大国である清がアヘン戦争でイギリスに負けたことを知ると急きょ方針を変え、日本へ来航した外国船に水と燃料を与えることに(薪水給与令)。
忠邦さんが、外国が怖くなって慌てて水を配り出すイメージで。
【1841年 天保】いーわ!良いテンポで
【水野】水を配る
人々に受け入れられる政策で改革すれば、幕末はまた違ったものになったのかな…
江戸の三大飢きんと改革
飢きんとは、天災または人災によって農作物が収穫できず、人々が飢えること。
江戸時代に起こった、享保の飢きん・天明の飢きん・天保の飢きんを『三大飢きん』といいます。
この“三大飢きん”と『三大改革(田沼の政策)』を改めて上の年表で確認すると…
- “享保の飢きん”が『享保の改革』の時に起こり、吉宗は飢きんへの対策としてサツマイモ栽培を進める。
- “天明の飢きん”が『田沼意次の政策』の時に起こり世の中が混乱。田沼意次の解任、『寛政の改革』へ。
- “天保の飢きん”が起こり、世の中が混乱し『天保の改革』へ。
…こんな繋がりが分かります。
表にまとめてみるとこんな感じ
起こった年 | その時の改革・政策 | 状況 | |
---|---|---|---|
享保の飢きん | 1732年 | 享保の改革 | 悪天候と虫害により西日本を中心に起こる この飢きんをきっかけに、吉宗がサツマイモ栽培の政策を打ち出す |
天明の飢きん | 1782年 | 田沼意次の政策 | 悪天候と浅間山噴火により東北地方を中心に起きる。 一揆などが多発し、世の中は混乱。意次の解任につながる |
(浅間山の噴火) | 1783年 | ||
天保のききん | 1833年 | (天保の改革の前) | 悪天候により全国的に起きる(特に東北) 対策を行わない幕府に対し、大塩平八郎の乱が起きる |
飢きんが起こった年の覚え方
まずは、上にあるように改革と合わせてどのタイミングで起こったかを分かるようにしておきたい!
その上で年号まで覚えるなら…
“天明の飢きん”と“浅間山の噴火”が起こった年が、1782年と1783年なので、
ご飯を葉にはさんで大事に保存しているイメージで、『葉にはさむ』と記憶。
そして、年表に書いてある通り、
“天明の飢きん”の50年前が“享保の飢きん”
“浅間山の噴火”の50年後が“天保の飢きん”
と、案外覚えやすい…
大事なのは、改革との関係性でどのタイミングで起きたかが分かること!
まとめ
今回は、江戸時代の三大改革(享保・寛政・天保)と田沼意次が行なった政策についてまとめました。
飢きんが起きたタイミングとともに、改革の内容やその成果を押さえていくと時代背景や時代の流れがよく見えるようになるので、しっかり復習しておきたいところ。
“スッキリと要点を載せた年表”で、改めて確認してみてくださいね。
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